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展覧会内容紹介「名画の成り立ち」

はじめに


「名画」という言葉を聞いて、どんな作品を思い浮かべますか。

たとえば、国宝に指定されている《信貴山縁起絵巻》や雪舟の《秋冬山水図》は、どうでしょうか。貴重な文化財だというのは分かるけれど、「名画」という言葉は少しそぐわない気がするかもしれません。ましてやアフリカや南米、東南アジアの絵画作品で「名画を挙げろ」と言われてもひとつも思い浮かばないのではないでしょうか。

やはり「名画」となると、ヨーロッパ美術、それもルネサンス期から印象派あたりまでの作品を自然と思い浮かべる人が多いはずです。

なぜ、日本に住む私たちの美の基準に、これほどまでに西洋の価値観が入り込んでいるのでしょうか。私たちにとっての名画、その成り立ちを考えるためには、「美術」という概念が日本に持ち込まれたところまでさかのぼる必要があります。


日本に輸入された19世紀末のパリの美術事情


明治元年(1868)、徳川幕府の時代が終わりを告げ、日本は明治新政府主導による近代国家への道を歩み始めました。それまで鎖国により限定的な海外情報しか入ってこなかった日本に、西洋の技術や思想が一気に流れ込んできたのです。明治10年代までは、日本の美術を取り巻く状況も、西欧文化の偏重やその揺り戻しの国粋主義など、めまぐるしく変化していきました。

その混乱が落ち着いてきた明治26年(1893)、フランスから帰国したのが画家・黒田清輝(1866~1924)でした。それまでも、フランスやイタリアで絵を学び、日本にその技術を持ち帰った画家はいました。しかし、西洋絵画の技術だけでなく西洋美術の概念そのものを日本に定着させる大きな役割を果たしたという意味で、キーパーソンとなるのは黒田清輝です。

明治17年(1884)、黒田は18歳で法律研究のためにフランスに渡りましたが、滞仏中に絵画の道に目覚め、ラファエル・コランという画家のもとで絵の修行を始めました。この時代にフランスに留学する日本人は、黒田を含め日本を一刻も早く欧米諸国と肩を並べる国にしなければ、という使命感にあふれた人物ばかりでした。黒田は留学中、後に文部大臣、そして内閣総理大臣となる西園寺公望などの日本人留学生たちと親交を深めています。

黒田が留学した19世紀末のパリは、伝統的、古典的な手法を重んじるアカデミスム絵画が徐々に陰りを見せ、印象派の画家たちが勢いを増しつつある、そんな過渡期にあたりました。ちなみにアカデミスム絵画の特徴を簡単に言うと、次のようなものです。

・イタリア・ルネサンス時代の古典主義絵画を理想とする。

・まとまりのある構図、的確なデッサンに基づく人体表現を重視する。

・絵画ジャンルにはヒエラルキーがあり、歴史画が最上位に位置づけられる。

黒田の師コランはアカデミスム寄りの画家であり、黒田もフランス国家主催の権威ある展覧会・サロンに出品し、1891年には入選を果たしています。このようにアカデミスム的価値観をしっかりと受け継いでいた黒田ですが、その一方で、当時パリで暮らしていれば、旧態依然とした保守的なサロンに反旗を翻して、独自にグループ展を開き、全く新しい絵画表現で注目を集めていたモネ、ルノワール、ドガ、セザンヌら印象派の画家の活躍が否応なく眼に入ったことは間違いありません。また黒田は、コロー、ミレー、ルソーといったバルビゾン派についても高く評価していたことが分かっており、決してアカデミスム一辺倒の画家ではありませんでした。

パリで9年間におよぶ留学期間を終えて、日本に帰国した黒田は猛烈に西洋絵画の普及に努めることになります。


作り上げられた日本版アカデミスム


アカデミスムと印象派の折衷様式であった師コランゆずりの黒田清輝の明るい色調は、それまでの日本の洋画界になかったもので、「外光派」「新派」「紫派」などと呼ばれ(対する旧来の洋画の呼称は「脂派(やには)」)、衝撃をもって受け止められました。

明治29年(1896)、東京美術学校(いまの東京藝術大学)に西洋画科と図案科が新たに設置されますが、黒田は西洋画科の責任者として迎えられました。東京美術学校は日本で初めての国立の教育機関として明治22年(1889)に開校していますが、当初は日本画、彫刻、美術工芸の三科しかありませんでした。西洋画科の設置の背景には、黒田とフランスで親交のあった文部大臣西園寺公望の働きかけがあったとされています。黒田の考案した大学4年間の教育プログラムをみると「1年目に石膏デッサン、2年目に人体デッサン、3年目は油絵習作と歴史画中心の課題制作、4年目に卒業制作」と、アカデミスムの教育手法をそっくりそのまま日本に持ち込んだことがよく分かります。

東京美術学校就任と同じ年に、黒田は仲間たちと白馬会という洋画団体を結成します。白馬会の展覧会では、黒田自ら作品を積極的に発表し、また岡田三郎助、和田英作、山下新太郎など多くの門下生を次々とパリに送り出しました。

そして明治40年(1907)には、日本初の官立の展覧会となる文部省美術展覧会(文展)が開催されました。この文展は、フランスの官展であるサロンを意識したものです。この文展開設のきっかけになったのも、黒田の文部省への働きかけであり、黒田は文展の審査員に就任しています。

また大正8年(1919)に文部大臣の管理下に帝国美術院が創設されると、黒田はその会員に任命されました。この帝国美術院もまたフランスの王立美術アカデミー(アカデミー・デ・ボザール)を手本としたものです。

フランスでサロンがアカデミスムの本陣となったように、文展は日本において洋画のアカデミスムを形成する場となりました。文展に入選し認められることが、画家としての評価に直結する構造ができあがったのです。

文展が形を変えながらも、今も日展として存続し、画壇の権威付けという機能を果たしていることからもわかるように、明治から大正にかけて構築されたアカデミックな美術制度は、日本の美術意識の土台となって今も連綿と続いているのです。


おわりに


黒田清輝を筆頭とした海外留学画家は、単に洋画の技術を伝えただけではありませんでした。フランスのサロンにならった文展の開設、アカデミーにならった帝国美術院の設置など、ヨーロッパのアカデミスム的価値観を根付かせる制度を日本において一から作り上げたのです。こうして、日本における洋画アカデミスムの基盤が出来上がりました。

私たちが無意識に思い浮かべる「名画」が、ヨーロッパのルネサンスから印象派の作品ばかりなのは、このように明治時代後半から大正時代にかけて、黒田清輝を中心に作り上げられた日本の美術システムが、今も根強く機能している証なのです。彼がフランスから持ち帰り日本に根付かせた西洋美術の価値観は、いまの日本人の美意識に確実に染み込んでいると言えます。

さて、あなたにとっての「名画」とは何ですか?