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展覧会内容紹介「名画に描かれる裸婦たち」

更新日:2022年7月23日

なぜ、裸を表現するの?


古来、名画と呼ばれるものには、多くの裸婦が描かれています。この展示室にも裸婦をモチーフとした作品を集めてみました。

これらの絵(または彫刻)を見て、何を感じるでしょうか。「芸術ってそういうものなのかな」と納得しようとしても、冷静に考えてみればこれだけ裸の人間(特に女性)を熱心に表現するのも不思議な話です。

本展は名画にまつわる展覧会ですので、ここで裸体表現の歴史について触れてみたいと思います。


古代ギリシャの裸体像とキリスト教による裸体禁止


時代はさかのぼって紀元前。ギリシャ美術の黄金時代と呼ばれるクラシック期(紀元前480年頃〜)、この時期に生まれた美術はその名の通り古典として後々まで西洋美術のお手本となります。

この時代は壺絵などをのぞけば絵画は残っていません。代わりに誰もが「ギリシャ美術」と聞いて思い浮かべるのが、筋骨隆々の男性を写実的に表現した大理石の彫像でしょう。

オリンピック発祥の地として知られるギリシャ。このスポーツの祭典は、もとは宗教的な祭礼だったと言われています。速く走る、高く跳ぶなどの常人を超えた高い身体能力は神々から授けられたものという考えがあったのです。鍛え上げられた肉体は神の恩寵を表す崇高な美とされ、そうした男たちの裸体が積極的に彫刻で表現されました。

一方で、女性の裸体はタブー視されていたため、ギリシャ彫刻で女性の裸体像はほとんど制作されていません。ギリシャ美術のクラシック期につぐヘレニズム期(紀元前340年頃〜)では、有名な《ミロのヴィーナス》や《サモトラケのニケ》(ともにルーブル美術館所蔵)などが制作されましたが、いずれも衣服をまとっています(《ミロのヴィーナス》は半裸)。

紀元前27年頃、ローマ帝国が誕生し、地中海一帯を支配しました。そこから「パクス・ロマーナ」(ローマの平和)と呼ばれる平穏な200年間が過ぎ、内紛による混乱期を経て、コンスタンティヌス帝(在位306〜337年)の時代になると、先代皇帝までが禁止し徹底的に迫害してきたキリスト教を公認するという大転換が起きます。その後、テオドシウス帝が392年にキリスト教を唯一の国教として定めました。

ここからキリスト教の世界観が社会のすべての規範となります。キリスト教は肉体的な欲望を否定的にとらえていました。それに加えて、キリスト教社会では、神と教会が絶対的な権威をもち、現実世界や人間は重要視されていませんでした。そのため中世と呼ばれる5世紀〜13世紀にかけて、西洋美術史の時代区分としては、ロマネスク期、ゴシック期が含まれるこの期間、男女の裸体を表したものはほとんど存在しません。そもそも人間が創作対象とならなかったのです。


ルネサンスの人間賛歌によって生まれた新たな表現


ようやく変化が訪れたのが、ルネサンスです。14世紀のイタリアでは東方貿易や毛織物業で富を手にする商人が登場し、また金融業が盛んとなるなど都市経済が大いに発展しました。経済発展にともない登場した富裕層が芸術や学問を援助したことで、一気に文化活動が盛んになりました。

ルネサンスの時代も決して教会の力がなくなったわけではありませんが、「死後の救済」を求めるキリスト教の厳格な禁欲主義は、繁栄する都市で人生を謳歌する人々の心には響かなくなっていきます。神を讃えるだけではなく、自分たち人間そのものをもっと讃えよう、という考え(人文主義、ヒューマニズム)が自然発生し、次第に主流になっていきました。当然、絵画や彫刻などの美術表現にもそうした考えが反映されました。

そこで再注目されたのが、古代ギリシャの文化でした。人間のありのままの姿を迫真的に表したクラシック期の彫像が脚光を浴びたのです。「ルネサンス(再生)」とは、古代ギリシャ文化の再生を意味します。

人間賛歌のルネサンスの時代がきて、画家や彫刻家は古代ギリシャのような完璧ともいえる美しい人体を表現したいと考えました。レオナルド・ダ・ヴィンチが人体解剖をしたことは有名ですが、この頃になると解剖学も進み、人体の構造もわかってきました。そうなると、肉体の隅々まで正確に表現したい、これは作り手が抱く当然の感情でしょう。

しかしキリスト教では、裸体、特に女性のヌードを描くのは禁じられていました。そこで画家たちが考案したのが、ギリシャ神話の女神をモチーフとした人体描写でした。たとえば誰もが知る名画、ボッティチェリ《ヴィーナスの誕生》(ウフィッツィ美術館所蔵)は、一見すると裸婦を描いているように思えますが、均整の取れた肉体をもつその女性は、人間ではなくギリシャ神話の女神アフロディーテ(ヴィーナス)なのです。キリスト教からすれば、ギリシャ神話は異教の物語でしたが、《ヴィーナスの誕生》は教会のために描かれたわけではなく、銀行家として財を成したメディチ家からの注文で描かれたものでした。このように教会とは違う富をもったパトロンが登場したことで、創作の自由度は高くなり、画家たちは新しいチャレンジができたと考えられます。

ここから徐々に、神話世界を題材にして、人ならざるものを描く場合は、裸体を描いても良い、という暗黙の了解が成立していきます。展示中のエンネル作《裸婦》も、明らかにニンフ(泉や森、川などの自然の精霊)を人の姿で描いたものです。


「近代絵画の父」による挑戦


神話にかこつけて裸体を描く、という約束事が定着し、時代が流れていきました。約束事ができれば、それを破る者が現れるのは世の常です。事件が起きたのは19世紀後半のパリでした。

「近代絵画の父」などと呼ばれるエドゥアール・マネ(1832~83)。彼が1863年にフランスの格式高い官設展覧会サロンに出品したのが《草上の昼食》(オルセー美術館所蔵)です。結局サロンには落選し、同年の落選展にあらためて出品したところ、これが大きな話題を呼びました。

マネが構成などを参照した古典作品が、16世紀に描かれた《田園の奏楽》(ルーブル美術館)でした。着衣の男2人と裸身の女2人が描かれている《田園の奏楽》ですが、やはり裸婦は人間ではなくミューズ(女神)または樹木などに宿るニンフ(自然の精)とされています。しかしマネは、これを神話画ではなく生身の裸婦として描いたのです。それまでの暗黙のルールをあえて明るみに出そうとする挑戦と言えるでしょう。

さらにマネは2年後の1865年に、《オランピア》(オルセー美術館所蔵)という作品をサロンに出品しました。この絵は近代絵画史上、大きな意味をもった作品として紹介されますが、正直どこがそんなにすごいのか、今の私たちにはピンときません。それもそのはず、キリスト教の宗教的価値観と、数百年にわたり特定の条件下でしかヌードの絵画化を許してこなかった歴史的背景を踏まえなければ、《オランピア》の衝撃は理解できないのです。この絵でマネは、ルネサンス以降、ひとつの定型として描かれてきた「横たわる裸婦」の形式を踏襲しています。しかし、ヴィーナスなどの女神として描かれてきた「横たわる裸婦」を、マネは《オランピア》で現実世界の女性、それも娼婦を横たわらせた姿で描いたのです。それを伝統ある官展のサロンに出品したのですから、その衝撃は並々ならぬものがありました。会場には激怒する観客や野次馬が殺到したといい、1枚の裸婦の絵が大きな騒動を巻き起こしたのです。


日本で起きた腰巻事件と裸体画論争


マネの《オランピア》発表から約20年後のパリにやってきたのが、黒田清輝でした。黒田はそれから9年間パリに滞在し、帰国後は滞仏中に制作した《朝妝(ちょうしょう)》という作品を、1895年の第4回内国勧業博覧会に出品しました。この絵は、鏡を前にして朝の身支度をする裸の女性を描いたものでしたが、これが警察によって撤去寸前となる騒動となりました。

当時の日本では、とにかく裸体は猥雑で風紀を乱すものだとして強く非難されたのです。博覧会会場では黒田の《朝妝》の周りには人だかりができ、恥ずかしく絵を見ていられずに顔を隠す女性の姿もありました。各方面から強い非難を受けても、黒田は「どう考へても裸体画を春画と見做す理屈が何処に有る 世界普通のエステチツクは無論日本の美術の将来に取つても裸体画の悪いと云事は決してない 悪いどころか必要なのだ 大に奨励す可きだ(中略)今多数のお先真暗連が何とぬかそうと構つた事は無い 道理上オレが勝だよ 兎も角オレはあの画と進退を共にする覚悟だ」と語っており、一歩も引きませんでした。

1901年、東京で開催された第6回白馬会展に、黒田はやはりフランスで描いた《裸体婦人像》(現在は静嘉堂文庫美術館所蔵)を出品します。これも風紀を乱すとして問題となり、警察は他の作品とは別の部屋に展示するよう要請しました。しかし黒田は頑として譲らず通常の公開にこだわりました。その結果、絵画の腰の部分だけを布で隠すという前代未聞の展示となりました。これが俗にいう「腰巻事件」です。この事件がまた話題となり、黒田を擁護する文化人もいれば、けしからんと非難する論調もあり、まさに裸体画をめぐって一大論争が起きたのです。

黒田清輝は、日本に西洋美術を根付かせることを使命としていました。それは単に絵画技法の輸入だけではなく、西洋美術のジャンルや価値観の導入も意味します。ルネサンス以来、西洋絵画で最も重要なモチーフは人間だったため、西洋に匹敵する日本美術を打ち立てるためには、人間を主題とした絵画が不可欠だったのです。黒田としてみれば、風俗問題程度で裸体を描くことをやめるわけにはいかなかったのです。

1872年(明治5)、東京府は違式詿違条例(いしきかいいじょうれい)という刑罰法を制定しています。その条例では、屋外や店先に裸体で出ることが禁止されました。今後西欧諸国との交流が盛んになり、日本に外国人がやってくる以上、裸の人間が往来に出ているような状態は改善しなければ、と政府は考えたわけです。だからこそ、公の展覧会で堂々と裸体画が展示されることも、とても看過できなかったのでしょう。欧米諸国に追いつこうという目的は同じでも、そのために政府は裸体を禁止し、反対に黒田は裸体を描こうとしたのです。


描かれ続けた裸体


古代からルネサンス、近代、そして日本における裸体表現について、主要な出来事を追ってきました。

こうして見てみると、いくら「美の規範」「神秘的な美しさ」などの言葉で説明しようとしても、やはり人間の裸体表現には禁忌や猥褻表現とのスリリングな駆け引きが必ずどこかにひそんでいるように思えます。

だからこそ、あらゆる時代で、数多くの芸術家が飽きることなく人間の裸を題材として表現を続けてきたのではないでしょうか。


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