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浮世絵の中の多摩を読み解く鑑賞ガイド

更新日:2022年6月30日



「たましんの浮世絵」展の作品を一歩深く理解するためのキーワードを解説します。


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浮世絵鑑賞ガイド
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■六玉川(むたまがわ)


「六玉川」とは、歌枕として古くから和歌に詠みこまれた、全国の六つの玉川を指します。「玉川」という言葉は「美しく清らかな川」を指す美称です。調布(武蔵国)、井手(山城国)、高野(紀伊国)、三島(摂津国)、野田(陸奥国)、野路(近江国)の六つのうち「調布(たづくり)の玉川」が、今の多摩川にあたります。


この「六玉川」は、和歌だけでなく江戸時代には浮世絵の画題として好まれました。それぞれの玉川は、ある特定のモチーフを描きこむという決まり事があります。これらはもともと、六玉川の和歌が本歌取り(※)の形で歌い継がれる中で、踏襲された語句に由来します。

※本歌取り=元の歌(本歌)から一部の句を取り入れて、作歌をする和歌の手法。


[各玉川のキーワード]

  • 調布の玉川―川にさらす布

  • 井手の玉川―山吹

  • 高野の玉川―旅人、氷

  • 三島の玉川―卯の花、衣を打つ

  • 野田の玉川―千鳥

  • 野路の玉川―萩

歌川広重《諸国六玉川 武蔵調布之玉川》

■調布(たづくり)の玉川


なぜ「調布の玉川」を描いた絵には、川に布をさらす人の姿があるのでしょうか。奈良時代末期に成立した日本最古の和歌集『万葉集』の中に次のような歌があります。


たまがわに さらすたづくり さらさらに なにぞこのこの ここだかなしき (詠み人知らず)

(多摩川の水にさらす手織りの麻布のように、さらにさらに、どうしてこんなにもあの子が愛しく思えるだろうか)


この歌にあるように、かつての多摩川では手織りの麻布を水にさらす人々(主に女性)の姿があったようです。多摩川流域では麻の栽培が盛んであり、その麻を手織りした美しい布が、朝廷へ調(ちょう・つき※)として納められていました。布は清流にくぐらせ、河原で日光にあてることで、しなやかでなおかつ白く美しい生地になるため、澄んだ多摩川の水にさらすのは非常に重要な工程だったのです。

※調=律令時代の租税の一種。朝廷に納められたその土地の特産物。


歌川国芳《武蔵国調布の玉川》部分

ちなみに現在の「調布(ちょうふ)」の地名は、朝廷への調として布を納めていたことが由来とされています。「調布」は古くは「たづくり」または「つきぬの」と読みました。調布には「布田」「染地」など、布作りに関連する地名がいくつか残っていますね。


『万葉集』の歌を本歌取りした和歌が、繰り返し詠まれるうちに、「調布の玉川」は、川に布を「さらす」「手作り(たづくり)」という言葉が定着し、絵画化に際しても画題として描きこまれることになったのです。藤原定家(1162~1241)の和歌「たづくりや さらす垣根の 朝露を つらぬきとめぬ 玉川の里」(手織りの布をさらす垣根に付いた朝露。その朝露が、まるで紐で結ばれていない無数の玉が散らばっているように見える、玉川の里よ)などは、よく浮世絵に引用されています(展示品の中にもあるので探してみてください)。

また、川に布をさらす姿と共に、河原に置かれた臼(うす)と木槌(きづち)が描かれる例も多くあります。これは織り上げた布を叩いて、繊維を柔らかくし、光沢を出す砧打ち(きぬたうち)を示すものであり、やはり「手作り(たづくり)」の絵画化と言えるでしょう。


■多摩川の鮎漁


多摩川を描く浮世絵では、漁をする人々の姿も目立ちます。

歌川広重《名所雪月花 多摩川秋の月 あゆ漁の図》

天保5年(1834)に刊行された江戸の地誌『江戸名所図会』の中で、「多摩川」の項を参照すると「鮎を以て此川の名産とす。故に初夏の頃より晩秋の頃迄、都下の人遠きを厭はずしてここに来り遊猟せり」とあります。江戸庶民は、多摩川で鮎の遊漁をするために、わざわざ郊外の多摩川(『江戸名所図会』の前後の)まで足を運んだというのです。


それもそのはず、清らかな多摩川の水で育つ鮎は、香り・味ともにすぐれ、幕府への献上品になるほどでした。多摩川流域の村が、幕府より代価を受け取って鮎を献上することを、上ヶ鮎御用(あげあゆごよう)と呼びました。天保6年(1835)の段階で、この上ヶ鮎御用を勤める村が多摩川・秋川流域には45もあったと記録されています。

また、徳川吉宗の時代には、御留川(おとめがわ)といって多摩川流域で幕府御用の鮎漁以外の漁業が禁止されたこともありました。まさに鮎は多摩川の名産品だったのです。


■小金井の桜


浮世絵に描かれる小金井は、たいてい満開の桜で彩られています。


歌川広重《名所江戸百景 玉川堤乃花》

玉川上水の両岸に築かれた小金井堤(こがねいづつみ)は、徳川吉宗(八代将軍)の時代、元文2年(1737年)から武蔵野新田開発の一環として桜(ヤマザクラ)が植樹されました。小金井橋(金橋、金井橋)付近には、実に千本を超える桜が並んだといい、『江戸名所図会』には「岸を挟む桜花は数千株の梢を並べ、落英繽紛(らくえいひんぷん※1)たり。開花のとき、此橋上より眺望すれば、雪とちり雲とまがひて、一目千里前後尽る際を知らず。仍て都下の騒人(※2)遠きを厭わずして、ここに遊賞するもの少なからず」と、その絶景の様子が記されています。

江戸の中心部からは七里(およそ30km)ある小金井でしたが、文化年間(1804~18)の頃には花見の名所として定着し、泊りがけで花見に訪れる江戸庶民でにぎわっていたことが、当時刊行された紀行文や浮世絵からうかがえます。

ちなみに、徳川吉宗の時代に整備された花見の名所として、他にも御殿山(品川区)、隅田堤(墨田区)、飛鳥山(北区王子)などがあります。


※1 落英繽紛=散る花びらがはらはらと乱れ舞う様子

※2 騒人=詩人・文人・風流人


学芸員 齊藤全人



企画展

たましんの浮世絵[併設 たましんコレクション2]

会場:たましん歴史・美術館(国立)

会期:2021年9月11日(土)~12月26日(日)

主催:公益財団法人たましん地域文化財団


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