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「Rebirth」出展作家インタビュー

更新日:2022年6月18日

多摩信用金庫本店2階ギャラリー(地域貢献スペース)では、多摩美術大学大学院美術研究科博士前期課程絵画専攻油画研究領域をこの春修了した有志6名によるグループ展「Rebirth」を開催中です。


出展作家の皆さんから、展示作品とその制作についてお話を伺いました。


(名前をクリックすると各作家のインタビューを個別にお読みいただけます。)






|姜子元さん


姜子元と申します。

まず、この作品は、子供の時、6歳くらいの時の自画像です。この絵(《自画像》)は、材料をいっぱい使いました。アクリルと、クレヨンと、水彩と、油と。とにかく、いっぱい材料を使用しました。制作にあたっては、画面を分析すること、画面の規格、画面の分割を意識しています。


姜子元《自画像》

――なるほど、最初に姜さんの作品を見た時、様々な画材を使ったりして、ここはこういう質感で、という部分ごとの画面の質感の違いがはっきりしているのが印象に残りました。


そうそう、画面のリズムは重要、(画面の)バランスは重要です。


――先ほど言われた「画面を分割する」というのは、画面を色々な質感で分割する、ということですか。


そうそう。そんな感じ。


――色んな画材を使いたいという意識は、「画面を分割する」ことを達成することもふくめ様々な理由がありそうですが、他にも具体的になにかあるのでしょうか。


たとえばこの(《自画像》の)顔の部分は、表面が分厚くなる絵具とか材料をあえて使わないようにして、わざとこの部分(画面左下、比較的絵具が盛り上がっている部分を指さして)よりも沈ませるように描きました。


――絵具の違いによって、ところどころ絵の表面が出たり奥まったりして、物理的な奥行き感が出てきていますね。様々な画材を使用するからこその効果ですね。


そうそう、そうです。そういったことも制作のうえで意識しています。



次は、《春の匂い》という作品です。新型コロナの影響で、ずっと家で、外では遊べないという感じ。これは去年の作品で、去年の春の時に、家にいた時描いた絵です。たとえば、花見、外に出られないので実際の桜は見えない。なので、ここで描いた「花」は「自分の世界の花」というか。この画面の要素のぜんぶが、画面全体の生き生きとした感じを示しています。たとえばこのダンスとか歌(画面上部の人物像を指さして)、いっぱいの、この画面の強い線とか。この、びゃーっとした。


姜子元《春の匂い》

――画面上の要素から、元気な感じとか、色んなリズムが入り乱れている感じを受けます。


そうですね、画面の色んな部分から希望とか喜びの感じが出てきて、結果的に画面の全体が元気な感じ。


――この作品も、先ほどの《自画像》のように、様々な質感が隣接したり重なったりと、画面の分割が強く意識されているようですね。


そうそう、そうです。



《UNTITLED》は、私の内心の感じを描いた絵です。一人は寂しいというか…。これは夜の景色で。この雰囲気は、めちゃくちゃ、ちょっと変わった感じで…ちょっと怖い感じですね。私の絵はぜんぶ私の日常の喜びと悲しみを描いた、毎日の日記なんです。


姜子元《UNTITLED》

――姜さんは日記として絵画を描いているんですね。


はい。そうです。


――この作品もコロナの時期に描いたのですか。


はい、そうなんです。


――一方では、こういう《春の匂い》のようなうきうきとした気持ちもあり、一方ではこちらの作品のような暗い気分になることもあったと。


はい、はい、そうなんです…。内心では、いきいきとした、希望もあるのですが、一方ではかなしくて、そういった矛盾する気持ちがありました。


――先ほどの《春の匂い》と対になるような位置づけの作品でしょうか。


うん、日常を送る中ではいろんな気持ちが出てきますから…。


――姜さんは日記として絵を描いているということですが、そのうえで大事にしていることはなんですか。


私は毎日の新鮮さ、新しさを記録として描いています。自分の気持ちを直感的に記録するために描いていましたね。文章とかの方が圧倒的に時間がかかりますから。


――文章よりも、感覚的なものを直接ぶつけやすい、ということでしょうか。


はい、絵なら、文章よりもずっと直接的で、早くて、見えやすい。日々の記録のためには、自分にとっては絵が適していると思っています。





|杜鵬遠さん


杜鵬遠です。中国の揚州出身で、多摩美術大学の博士後期課程1年生です。よろしくお願いします。

今回の作品は、院1年生の時に描いた絵です。私は主に、鳩について描いています。黒い(灰色の)鳩。日本では、白い鳩は平和のシンボルなんですけど、灰色の鳩は、普通に、汚く感じる人もいると思います。けれど、この街に一番よく見られる野生動物だと思います。私にとっては、黒い鳩は、現代の裕福な家庭に生まれた若者に対してあまり豊かでない家庭出身の若者のような、そういった普通の若者たちの存在に近しく感じます。現代の若者、若者の価値観を描くという目的のため、鳩をモチーフにしています。


――鳩が一羽、ややラフに描かれています。右側の作品では鳩の足元に水紋らしきものが見えますが、どちらも鳩以外の情報はほぼ明示されていません。


主にスプレーを使って、わざと、そんなにきれいに描いていないのですが、その理由は、スプレーは比較的貧しい人たちやストリートアートに使われている画材・技法だからです。そして、今の若者のサブカルチャーにも多用されており、この技法自体に若者らしさがあると思います。


左《the one》右《hato is in the rain》ともに杜鵬遠

――現代の若者や彼らの価値観のシンボルとなるモチーフと技法を選びとったということですね。


そうです。モチーフでも、技法でも。

そして、スプレーは使いやすくて、専門的に勉強しなくてはいけない油絵などより、素人でも簡単に描けるものだと思うので、選びました。


――スプレーで描く、となると、あまり時間をかけずに、というイメージがありますが、制作時間はどれくらいになるのですか。


いや、言うのはちょっと恥ずかしいかもしれないですけど、あまり時間はかけていません。たぶん一日でぜんぶ完成しましたね。意外と、簡単だと思います。


――絵を早く仕上げる、ということは、制作の上で大切なことですか。


そう、大切なことです。そもそもスプレーの絵というのは、たとえばバンクシーとか、警察が来る前に(規制が入る前に)完成させなければならないものです。なので、私の制作も、早く(速く)なければ、という感じがあります。


――なるほど、そういった、ストリートアートとしてのスプレーによる絵の考え方、ルールもふまえた上で制作しているんですね。


はい。今は、わざわざ長い時間をかけて絵を描くのは、どうかなと思っています。


――今は、あえて早く描くことを意識していると。


はい、これも社会問題だと思いますけど、こういう、情報の時代、情報社会で。


――情報が膨大で、高速ですよね。そういった、情報があふれるほどあり、ものすごいスピードで流通していく今の状況は杜さんにとってはどのように感じられますか。


色んなものが「速すぎる」という感覚があります。そのことは、これらの絵にもあらわれています。これらの絵には、全体的には、背景らしい背景もなく、端的に説明的なものしか残っていません。あえて、「早くわかる」ものを、速く描いたのです。


――杜さんのいう「速すぎる」社会状況を、手法とか、選ぶ画材、制作の速度だったりとか、絵画として様々な側面から、批判…いや、ただ批判的な作品というわけでもなさそうですが…。


そうそう、そういうこともあります。

今回の作品は、あまりに画面が簡単すぎて、説明できることがあまりないと思いますが…。


――あんまり説明的になりすぎると制作も時間がかかってしまいますもんね。


わかりやすいように、説明的にわかりやすく描こうとすると、むしろそのことに時間がかかってしまう。皮肉かなと思います。

…まあ、今回の絵は昔に描いたものなので、記憶に残っていないことも多いです。


――現代の、あまり裕福でない若者の価値観や彼らのおかれた状況を思って描いたということですが、絵としてはかなりシンプルに映ります。作品を見に来た人に、どのように見られることを期待しているか、などありますか?


正直なところ、観に来てくれる人には、これかわいい、とか思ってもらえたらそれでいいんです。自分が制作する時は重い気持ちで挑むのですが、結果的には、できたものを見て自分自身でも、これかわいいなと感じることもあります。…この時は灰色の鳩を若者の象徴として描きたいと思ってやっていたんですけど、修士2年からは、そのやり方を諦めてしまいました。人を描き始めたんです。


――何がきっかけとなったのでしょう。

本当は人を描きたいという気持ちもあったのですが、妥協として鳩を描いていたというところもあって…。いつも、鳩を描くと他人からはわかりづらいと言われていたので、結局は人を描くことにしたのです。人は他の動物よりも表情が豊かであると思います。そのため、人は人のイメージに対してとても敏感になって、時に色々な悩みを抱えたりもするでしょう。人の表情はその人の喜びや悲しみを端的に表しますから。表情に限らず、姿でも。ですが、他の動物は人よりもわかりにくいですよね。


――鳩を描くことを経て、今は、何を描くかという点でも、「わかりやすい」ものを意識しているのでしょうか。


そうなんです、でも、「わかりやすい」と「説明的」という部分では……、「説明的」なものはよくないと思います。周囲からもそういうことを言われますし…。鳩を描いている時もそうですが、「わかりやすい」「わかりにくい」「説明的」のバランスを考えて絵を描いています。





|成瀬拓己さん


成瀬拓己です。

僕は線を意識して絵を描いています。線は、目に見えないものをうつしていく時に用いられるものだと思っていて。それで、今の「目に見えないもの」の中でも、電子的なものを意識しています。それを、光の三原色の色の線で引いていくことで、自分の精神的なものとかを絵に投影できればいいなと思って描いています。

手前、奥ともに成瀬拓己《light emitting portrait》

――この2点並んだ《light emitting portrait》は、ほぼ一定のリズム、太さ、幅で細い線が引かれて人物の顔が描き出されています。画材のことや、線を引いて絵を作ることについてなど、作品制作の上で特に意識していることを、より具体的にお聞きできたらと思います。

まず、画材は、水性顔料インクのペンを使っています。水性だと、ちょっと日本っぽい感じがあるなと思って。色合いとか、効果的な面で。日本画で見られる、水を使用した顔料や染料による淡い色彩に近いものを使いたかった。

――一本一本の線の色は鮮やかさがありますが、全体として、線の集合として見ると絵自体はやわらかな印象があります。そして、よく見ると、ところどころにインクの染み込み具合の違うところや微妙な線のぶれなどが見て取れます。 均一な線を引こうと努力してるように見えたらいいなって感じはあって。 ――基本的には、あくまで均一に線を引くということを大切にしているのですね。 そうです。それを、手描きでやりたい、という。


――そのように考えることとなったきっかけについて教えてください。

こういう作品を作ろうとしたきっかけは、中国の敦煌に行って壁画を見たことでした。めっちゃ均一に引かれている線が印象的で。この絵を描いた人の精神力が、この線の一本一本に表れているように感じたんです。それを自分でもやってみたい、というのと、こういった表現を現代でやってみたらどうなるのだろう、と。


――敦煌の壁画の描かれ方に大きな影響を受けたうえで、ご自身なりのアップデートを試みていると。

「精神力」という言葉がありましたが、確かに、均一さを目指して引かれた線でも、どうしてもその手描きの線からは、描いた人の何らかの癖などが見えてくるように思います。


そう、でも、それをできるだけ消していくっていう。

――ずっと制御を加えていくということですね。それがなされているということが、実際に引かれた線をみた時にわかると、面白いですよね。描く時の緊張感が伝わってくる。この線と線の間の幅とか、「一定に一定に」という意識のもとで引かれていることがわかるんだけれど、よく見ていくと、微妙に狭まっているところとか、膨らんでいるところとかもあって。そういった点は、否応なく作家の存在を思わせるようです。

そうです、そうです、そういうのって勝手に出てきちゃうものだと思うので。それがいいなって思っています。敦煌の壁画に影響は受けていますが、結局はオリジナルでやりたいという意識があるので、壁画の方では白黒みたいな感じの描線なのですが、それをカラーでやってみたら面白いのかなと思って、そこから始めていきました。敦煌の壁画は下書きの上から丁寧に手描きでなぞって図像が描かれてますが、そういった部分は同じようにやっています。

――なるほど、均一な線を引くということをとても重要視されているとわかりましたが、そのほかに、今お話しされた使用する色についてや、線の幅など、画面構成の上でより具体的なルールがあるのでしょうか。 この作品(壁面に並んでいる2点のうち向かって左側の《light emitting portrait》)は一番最初に描いたやつで。特に何も決めずにドローイング的にやってみたものです。ここであれこれ試してみていて、模索中という感じです。こっち(向かって右側の《light emitting portrait》)はもう結構ルールを決めた上で描いたものです。右側の作品は、瞳とかは、赤青緑で、一番濃い色を作って。テレビの色を出すようなイメージで描いていました。ちょっと茶色っぽいところとかは、青緑青緑…で統一して行って、縁の箇所についたら、赤緑青赤青緑…で全部同じようにして描いていって、髪の毛も同じ感じで、青赤緑で全部統一して描いてました。 ――使用する色の順序を決めて、色の見え方をコントロールできるようにしているんですね。線自体の幅や線と線の間の幅などについてはどうですか。 そこはあまり決めていなくて。でも、これよりも大きな作品を作る時は、青緑緑青みたいな、同じ色が隣り合ったり干渉してしまいそうな色の選び方をしたい時は、幅をちょっと離して、とかはありますね。絵が大きくなると、他の色と被っちゃう場所がいっぱい出てきちゃうので。色をちゃんと出すために幅とか調整しつつ、でも最初はそれもよくわからないので絵の中で模索して。絵のこっち側からはだんだん変わってるのがわかるとか…やってしまいます。

――同じ絵の中に、模索中の場所と、規則が整いつつある場所が一緒に存在してしまうと。よーく見るとそれがわかるような。


そうそう…。あと、今回の作品は使っていないですけど、記号で柄のパターンを作ったものを絵の部分ごとに分けて使って、画面の中で図像に物質的な差異をつけることもやっていますね。


――なるほど。色の選択と線の幅で、部分ごとの質感の違いも描き出そうとしているわけですね。


そういうねらいがあります。三色でどこまでできるかみたいな感じでもあって。限定していった方が面白いことが起きるんじゃないかっていうことがあって。それで、色々やってみてるという感じです。この(壁面向かって右側の《light emitting portrait》の)唇の部分とか、けっこう考えましたね。光っている部分は、赤青で、暗いところは赤緑赤、みたいな感じでやりました。


――要素がシンプルな方が、色々と操作しやすいですもんね。


そうですね。メッセージとかも生まれやすいのかなって。シンプルな方が。


――パッと見るといろんな線で人の顔を描いているんだなと思うけれど、最初の印象がそうだとしても、よくよく見てみると、どういう順序で描いているんだろう、というような描き方のルールや、色の選び方などが、気になってきてしまう。


そういった、遠くから見た時と近くから見た時の印象の違いを感じてほしいな、というのは、とても思いますね。描く時の順序としては、一番、目が好きで、目から描いてますね、目の次は鼻で、口描いたら輪郭決めて、最後は、自分は髪の毛を描いている時が一番楽しいので、髪の毛をばーっと描いていって、あとは、正直ちょっと疲れたな、と思いながら、描いていきます。ルールを課すだけだと楽しくなくなるというのもあるので、好きなところから描き始めることはしています。今回はあまりないですが、後半に行くにつれて、失敗しちゃだめだという気持ちが出てきて、だんだん筆が遅くなったり(笑)。



成瀬拓己《light emitting portrait》

――こちらの、光るワイヤーで人物を描いた作品(《light emitting portrait》)のシリーズは、いつ頃から制作し始めたのですか。


修了制作がはじめてですね、形にしたのは。一年前くらいに試しにやってみたのが始まりで。普通に光らすこともできるし、パカパカ点滅させることもできるっていうのが面白く感じて、始めました。

人物を光らせたい、というのがもともとあって。もともと、学部の時の卒業制作が神話を題材にしたものだったのですが、アイドルチックなものを光らせたいなという思いが強くあったのです。


――先ほどご紹介くださったペンの作品にも、描いたものを光らせたいという意識はあったのですか。


ありました。ただ、それよりももっと、直線的にやりたいなと思ったんです。前は、緑、赤、青って光の三原色でやって、修了制作もそれでやったんですけど、光るんだったら、緑でもピンクでも青でも関係ないと思って。こっちの作品は、ピンク、青、緑で、三つの、その対象に合う色を選んで。


――その人らしい色を選んだんですね。


そうです。この人、題材にしてるのが、ポピーっていう、アメリカのミュージシャンがいるんですけど、その人で。そのひとはポップに光らせたら面白いと思って。曲の歌詞のイメージもパンクな感じなので、それも意識して。


――人物を光らせる目的のために、描線自体を光らせるというのはとても直接的なことですよね。そして、この作品では、光の色の選択は成瀬さんにとっての対象のイメージに拠っているのですね。


あのペンの作品も、最初描いてて、光の三原色を使用することにこだわっていたんですけど、だんだんと、そうじゃなくてもいいのではないかと思うようになっていったんです。


――なるほど、人物を光らせるという目的のために、描線の色は光の色に限らなくてもいいと。


そう思いました。光にまつわる色にかぎらず、色で対象を光らせることは可能だと思った。このルールでやれば、光らせられる、というのを、今はいろいろと模索してみている感じです。





|小熊杏奈さん


小熊杏奈です。

美術館とかで、絵を背景にして写真撮ってる人とかいるじゃないですか。そういう人たちのために描いている、というか。絵画って、見るものじゃなくなってきてるのかなって思っていて、なので、こういった中心がない絵画というか、見るべき対象がない絵画みたいなものを制作しています。



左《花の万華鏡#1》右《痕跡》ともに小熊杏奈


――画面に図像は確かにあるのですが、その中でも、特に目をひく図像がどれかわからず、目が迷ってしまいます。


《痕跡》は壁紙みたいな感じで作っています。《花の万華鏡#1》は、お花を使っているのですが、こういう線対称に描くという作品を最近作り始めていて。こっちの模様的なもの(《痕跡》)は、学部の卒業くらいから、絵画じゃなくて模様でもいいのではないか、と感じたところから始めてますね。なので、2年間くらいは模様を描いていることになります。


――たしかに、模様となると、たとえ中心らしい図像があっても、繰り返しのパターンとして基本的には中心を欠いたものになっていきますよね。模様って、いわゆる利用、活用されていくものですし。


美術館に行って絵を見た時に、「この絵なんだろう」と思うことがよくあって。たぶん作った人は、「これはこうで…」って思いを絵にしていて、その思いは伝わっても伝わらなくてもいいと思うんですけど、見ているこっち側としては、「ん?」みたいな。疑問に思えることがいいことだと思うんですけど、私は、わかんないことがいやだなあと思っていて。そこから、じゃあ、これは何かに使えるものにしようかな、と思って絵画を描くことにして。絵画を背景にして写真を撮るというのは、「映える」ことが目的だとは思うんですけど、「映える」ような背景の絵を描いたというのがきっかけで、このようにどんどん進んでいきました。


――「背景になるような絵」を描くことがこういった作品制作の出発点だったと。最初の方の作品は、どのような絵になったのですか。


最初は、お花をぎっしり、というものでした。例えばこの《花の万華鏡#1》のような感じで。ちっちゃい花束を買ってきて、それを違う角度から撮影して、Photoshopで違う角度から撮った同じ人を合成して作る画像のように並べて、花でできている壁を想像して描きました。


――フォトスポット的なものを絵画で作ったのですね。


そうですね。大学の教授とかは、海外の美術館とかだと、写真を撮ることすらダメなところがあるのに、“高貴な”絵を、こういう…背景にして写真を撮るなんてことは、絵画に対する態度としてどうなのかと。なるほどそういうふうにとらえる人もいるんだなって、その時は思ったんですけど。 ――今の日本の美術館で散見される状況はやっぱり絵画に対する態度としては異質であると。

モネの絵とかも、それが日本に来て、絵そのものや絵のパネルを背景に人が立って写真撮影して、「インスタ映え」みたいな。そういう感じを見て、私はなんかそれ面白いなって思って。

――小熊さんにとっては、あくまで何かの背景となる、「映え」のために利用される絵画というところがコンセプトの大部分であるのだと思いますが、連続するモチーフを描くとか、既成のものを描くということのベースになっているのは面白いと思います。今回の作品にみられるような、模様とか、万華鏡とか、いわゆる、同じ要素が連続していくというものですよね。

ああ、草間彌生のネット・ペインティングとかを彷彿とさせますねえみたいなこと言われたことがあります。ぜんぜん、そういう意識はないんですけどね。

――なるほど。ただ単に同じ図像を連続させたいのなら、必ずしも手描きである必要はあまりないように思うのですが、自分の手で描くというところはなくさないでいるぞ、というような感覚があるのでしょうか。 そうですね、それは、自分でも、変だなあって思います(笑)。おんなじような模様を描いているのに、なんで手描きしてんだろうみたいな。それがなんか面白いなあって思い始めています。

――《痕跡》にある、この模様、柄は具体的にはどのように描いたのですか。



小熊杏奈《痕跡》

はい、これは全部ネットから拾ってきたフリー素材の模様を写して。絵と同じ大きさの紙を置いて、ボールペンで模様をなぞって、という。

これはドローイング的なものなのでやっていないのですが、以前は、模様の絵の、絵具の縁の輪郭まで一つ一つすべてなぞることもしています。修了制作(凸凹とした外形の、柄でうめつくされたキャンバスが組み合わさって一つの絵画が構成されている作品)ではそれをやりました。あ、それと、修了制作展では屋外に展示しましたね、周りのことも考えて。


――なるほど、展示空間についてのお話も出ましたが、それではこういった、今回展示で出されているような作品は、展示室に展示するのがいいか、屋外など展示室以外に展示するのがいいかとか、展示空間との関係性についてはいかがですか。


最近はちょっと考えてますね。本当は中(展示室)にあったほうが、絵画に対する態度的には、いいと思うんですけど…、あ、屋外のほうが良いのかな…屋外は検討中ですね。屋外に絵を置いたとして、絵の部分は、「“よい”空間」になりますけど、そのまわりはどうなのか、とか。たとえばそれを写真に撮ったとして、フレームに収まった絵の領域はきれいだけど、そこから出てしまうところは汚い、みたいな。そういうのとかは、ちょっと考えています。修了制作も、「写真に写る」というのを考えて、講評の時は外に展示することにしたんです。外形が四角じゃないのは、写真に撮った時に、普通の絵画は四角くフレームの中に収まるけれど、四角いフレームに収めた時に、フレームの中が完全に絵の空間だけにならないようにしているからです。絵の向こう側の空間も、写真の中に組み込まれるように。


――鑑賞者に利用される絵ということで、これまでは絵画それ自体をどのように作るかが重要なこととしてあったのだと思います。最近はそれもふまえながら、絵画と鑑賞者の属する場、現実空間との関係に対しても積極的になっているのかなと思いました。

今回のこの展示場所はいかがですか。展示壁のガラスの向こう側に信用金庫の職員の方が働いているのが見えて、その向かい側は大きなガラス張りで、中は広場からもよく見える、というところで。


そう考えると、空間としてはちょっと曖昧なところだと思いますね。いわゆる展示室らしい展示スペースではなくて、それが逆に、いいのかもしれないです。いつも制作している多摩美のアトリエに展示することもありますけど、そこよりは全然きれいだし展示しているという感じがあります(笑)。





|王露怡さん


王露怡です。中国の杭州出身で、多摩美術大学の修士課程を修了しました。

だいたいの作品は、自分の経験とか、自分の日常生活での経験、自分の見る夢などがもとになっています。そこに、色んな、急に思いついたアイデアとかを使って想像しながら描いているんです。


――絵の中を階層構造として見てみた時、描かれた要素が属している空間の曖昧さを強く感じます。色の強弱や要素の置き方によって、画面には独特な調子が生まれています。

左《Wings》右《Embrace》ともに王露怡

この絵(《Embrace》)は遠くから絵を見ると人の顔や手はぼんやりと不明瞭でも、近くから見るときちんと描かれていることがわかるように描いています。たとえば、自分の夢の中に現れる昔の人(友人・知人)とか、そういう人たちって、よく、この人知ってる、私の友人だ、という意識はあっても、その人の顔自体はよく見えない、ということが多かったんです。なので、そういう曖昧な感じを作品の中に入れたいと思ったんです。自分と他人の関係とか、自分と周りの環境、世界との関係とかが気になって作っています。モチーフは、昔は人物が多かったけれど、最近は植物とかが多くなってきて。昔は人物を描くのが好きで。でも、修士1年の後半から、ちょっと、人物の壁が見えてきて。超えられない壁が自分の中であって。それは何かっていうと、いつも私が描きたいのは、その、誰かがいる、生命がそこにいるっていう状態なんです。でも、毎回構図とかを変えると…、要するに、絵のことを面白くすると、どんどん物語とか、そういう方向に行っちゃうんです。自分がやりたいのは、「存在」だけなのですが。


――「そのもの」を描きたいんだけれど、いざ描いていくと、「そのもの」以外の別の要素も出てきてしまって、それが、物語性を帯びてきてしまう。 そうですね。たとえば、人物を画面の真ん中に複数配置して…という絵を描いたら、次は(大学の)先生に、「じゃあ次は、“ここに描かれたふたりは〇〇をしてる”っていう絵を作ったらどう?」って言われて。ずっと同じような構図の絵ばかりだとつまらなくなってしまうから、ということだったようですが、そう考えたら、じゃあ人物じゃなくてもいいじゃんと思い始めて。 ――退屈にならないようにと。でもあくまで、王さんにとっては、そこにある、ということが重要であって。 まあ、今回の展示に出したのはどちらも人物を描いたものになるんですけどね。《Embrace》は、手前の二人の人物が抱き合っているようにも見えるし、一人の人物が自分を抱きしめているようにも見えるように描いたものです。あとひとつ、この、左側の人物に髪の毛みたいなものがあるんですが、これは一方ではほかの人からは鳥にも見えるよと言われて。それで、これ以上はもう描かないほうがいいと、描かないと決めて、そこで絵を終わらせることにしました。 ――ひとつの図像がひとつの何かとして見えるのではなく、異なる見え方として同時にそこにあるような。それで、それ以上先に進むと、王さんの描きたい、存在というところからは外れてしまうと。


私は幼い頃から、夢の中で、飛べる人なので、たとえば普段、現実世界の中では普通に歩いている街を、夢の中でもう一度訪れてみた時には、その街の上空を飛んでいるということがよくあります。


――普段生活している時とはまったく別の視点で、現実世界と同じものを眺める、というような体験を夢の中で結構されてきたんですね。


自分の研究したいテーマのなかで、私が魅力的だと思っていることは、生命がその周囲の世界との関係の中で出あう、不思議なものとか不可解なこととか、そういうことで。そういうことが一番、自分は面白いと思っています。もっと深く言うと、他人との関わり合いの中から生まれてくる不可解なこととか、記憶の中で消えていく、実際は消えてしまった人とか…それが夢の中でまた急に現れて…ということが経験としてあると思うのですが、そういう不思議なところとか…。


――王さんが惹かれる、他人との関わり合いの中での不可解さというのは、具体的にはどのようなことでしょう。


理解しようと思っても理解できないところとか、分かり合えないという気持ち、感情のもつれ、などですかね。

植物に対しても、関係性の構築、ということはあると思います。昔私の暮らしていた家の近くには、一本の木が立っていましたが、毎回その前を通る時は、その木からとても視線を感じて。その木が私のことを見ている、と、とても感じたものです。それは、自分と植物の中で、不思議なことが起こっているということだと思うんです。


――あくまで相手は植物、樹木にすぎないけれど、あ、いま関係性を築いてしまった、というか、別のものと交信したな、というような。


はい。そういうことです。二本の木とか、花とか、植物…そういうイメージで描いていますね。


――絵のつくりについてもお聞きしていきたいのですが、描かれているものの輪郭がところどころで溶けあって、絵の階層構造がおぼろげになっていたり、かと思えば奥行きも見えたり、画面に独特なうねりを感じます。


そうそう、そうですね、遠景/中景/前景などと、あんまり分けることなく描きたいのです。


――キャンバスの肌理のざらつきが感じられ、それとともに淡いトーンが繊細にまじりあうような様相をしています。


絵の質感のことで言えば、厚さが出ないように絵具をのせて、キャンバスの地の質感が、なるべく出るようにしていますね。描いている時に、そのままの筆跡とか、そのままの色をキャンバスには残したくて、あんまり、わざと作った色などはのせたくなくて。好きじゃないので。


――描く時、あまり自分からコントロールしないように心掛けているのですね。


昔は、制御して、画面も整理して描いていた絵もありました。でも…今のやり方が一番合っていると思っています。それと、過去には、わざと物語性が感じられるように描いた絵もあったのですが、振り返ってみると…やっぱり私は嫌だな、と思いました(笑)。


――あくまで、描くものに対しては最小限のことをして、手を加え過ぎないようにして、と。


はい。


――なるほど、素直に率直に、シンプルに描きたいという気持ちを前提として、絵画としての質感をいかに出すのか、など、よく練られたうえで描かれている部分もあると思います。


構図がシンプルになってきたのは修士2年の後半くらいからで、やっと自分がやりたいような絵を描けるようになってきて。やっと自分がやりたいことと、それが可能となる道が見えてきたって感じです。

自分の研究も、自分の心の中のこととか自分のことを掘り出すという感じなので、絵では、そのままの自分を素直に見せられないといけないと思っています。





|林谷穠さん


林谷穠と申します。高校でも、大学でも、少しは絵を描いていたのですが、日本で美術を本格的に勉強したいと思い、多摩美術大学に入学しました。

今回出展した作品は、実は多摩美に入学してから初めて作った作品なんです。自分のアトリエで、はじめは何を描いたらいいかなかなか思いつかなくて。私は大学の頃に神経学を勉強していたので、とりあえず、そういった自分の背景を利用して、細胞を描くということに決めました。そしてもう一つ、この絵は何だか暗い雰囲気なのですが、これは、通っていた予備校の先生に、「美大の先生は暗い人間は好まないらしい」という話をされて(笑)、合格してから、それを思い出して、それなら思いっきり暗い絵を描いてやろうと思ったからです。



林谷穠《cell/eye》

――この絵のどこか暗い感じは、特別なんですね。


はい(笑)。

この絵の後の時期に制作した絵は、先に公式やルールを立て、それに基づいて絵を描く、ということをしていました。なので、それに比べると、今回出した絵は、ぱっと思いついたものをそのまま描いたようなもの、かもしれないです。ストーリーは一応あるんですが。


――細胞を描くということですが、具体的には細胞のどういった要素を描きたいと思われたのでしょうか。


そうですね、今回出した絵は、細胞を上から見た、見た目について描こうと。先ほど話した、この絵より後の時期に描いた絵では、細胞の働きを。それは、自分のルールがあって。

今回の絵については、細胞を顕微鏡を通して見られるようにしようとする時、紫の染料で染めないといけないのですが、そういうことがあるので、細胞を紫で描いたのです。


――顕微鏡を通して見た細胞の様子が描かれているんですね。主観で選んだ色を使ったわけではなくて。


はい、空想のものだけじゃなくて、せっかく理科を勉強したから、事実を求める部分も絵にしたいなと思って、こうしました。


――あくまでスケッチするように、見えたままを精巧に描き出そう、というわけではなくて。空想のもの、というのはこの眼球と思しきものでしょうか。


個人的に、目玉を描くのが好きで。細胞の核が丸いので、その形と重ね合わせて描きたいと思って。空想と事実を混ぜるという意味でこんなふうに描きました。あと、さっき言ったストーリーというのが、昔、ロバート・フックという人がいて、その人が細胞を、cellと名付けたのですが、死んだ木の乾いた細胞を見た時に、木は細胞壁があったので、四角い形が見えたと。それが部屋に似ているので、cellと名付けたのだといいます。もし当時、植物以外の細胞をフックが見ていたら、細胞はcellにならなかったんじゃないかなと思います。というのは空想ですが。当時の技術では皮膚の細胞などは見ることができませんから。今回の絵のように、丸い細胞など見えないし、ましてや丸いからと言って目玉を連想することもない。


――動物の細胞の丸さがわかるのは新しい時代の新しい科学の産物で、それがなければ、眼球という身体の中の別の丸い部分と結びつけることもなかったと。


はい、はい。


――細胞を描こうと思ったのは、大学時代に神経科学を学ばれていたというのが発端ということですが、学ばれてきたことの中でも、特にこれをモチーフに選んだのはなぜですか。


細胞は神経科学の基礎で…。生物の成績はあまりよくなかったですが、基礎だけは自分にとっては得意でした、なので、基礎のものにより親しみを感じていて、描くとしたら、それを使いたいと思って。

この絵の後の時期に描いたものは、さっきお話ししたように細胞の働きを描いたものですが、具体的には、並んだ細胞が隣り合う細胞に時計回りにその中身を受け渡していく様子を作品にしました。細胞自体の仕組みと、私が考えたルールを重ね合わせて描いたのです。


――なるほど。今回の作品は細胞の仕組みというより見た目を描こうということで制作されたものとお聞きしましたが、細胞の仕組みとして、分裂することなど、動きや時間の経過を感じさせる要素もあるように思います。


そうですね、細胞分裂の様子、過程を描いています。形の連想で追加した目玉も、細胞の分裂のルールに従って分裂しています。ここ(二つの眼球が組み合わさっているところ)は、いままさに分かれようとしてるところで…。


――細胞を描くうえで、制作上のルールなどありますか。


たとえば、細胞膜は穴が開いていて、そこで物質交換が行われるのですね。なので、穴が開いているように描いています。この紫の途切れた線の部分です。


――絵具の盛り上がりが、ちょっと生々しいですね。


予備校の頃に使っていたモデリングペーストを、制作では使い続けていて。こういう質感が作れてよかったと思っています。絵具を盛り上げるということは結構します。絵具を高めに盛り上げることは、油絵のかっこいいところの一つだと個人的には思います。


――ほかに、描く上での工夫はありますか。


ここ(細胞の中の粒状に描かれた部分)は指を使いました。他の作品でも指で描いているものはあります。大学の頃、一日だけ、筆以外で絵を描く授業があったのですが、自分にとってはいい授業だったんです。その時に指を使ったことが影響していると思います。一日だけの授業だったけれど、楽しかったです。


――今回の作品は、有機的な動きを感じる画面という印象があって、どのような順序で描いていったのですか。


先にモデリングペーストで、全体の枠組みを作って、一つの段階を作ります。細胞の枠組みはここで配置して。それで、全体の赤い色を入れ、背景の青を入れ、最後には紫を入れて…という感じです。


――画面を結構きっちり構造化してから、画面の全体が、一つ一つの段階を踏むようにして完成するようにしているんですね。


そうですね、そういうふうにやっているのですが、この作品に関しては、講評の時に先生からもっと緊張感がないと!と言われてしまいました…。その時から、思ったように描くだけじゃダメで、緊張感を出していかないといけないんだって思って…。制作過程のことについて言うと、実験をする時は、決まったステップにのっとってやればいいので、あんまりこちらとして考えることはないんです。その通りやれば、何らかの結果が得られる。そういう風にステップを作っているはずだから。そうやって制作をすることは好きではあります。


――淡々と段階を踏んで、ある成果にたどり着く、実験のように絵を描く、と。


と言っても、修了制作で描いた植物の絵は、完成しなかったんです。今言ったやり方で作らなかったから、どうしても、終わらせることができなかった。細胞の絵は、実験するように、やりました。神経科学を学んでいた大学時代には絵の授業も選べたので授業でも描いていたのですが、当時描いていたのは見た目も全然違う絵で、この時は実験のプロセス、などは考えずに描いていました。今みたいな絵を描けるようになったのは、大学から離れて、日本に来ることができたからだと思っています。自分が大学で勉強した神経科学のことも大切で、絵も描きたくて。大学の先生に、教科書の絵を描けばいいじゃない、などと言われたり、予備校の先生にバイオアートを勧められたりしたこともあったのですが…。今は、神経科学を学んだ自分の背景に頼り過ぎずに、絵と上手に融合させられたらと思っています。




 

インタビューでは、制作プロセスに加えて、作家それぞれの制作における課題やモチベーション、その元となる個人的な経験などについて詳細に伺うことができました。思い通りに作品を展示し発信していくことが難しいという実感の中、制作をめぐる探求と挑戦を続けている彼らの作品をぜひ会場でご覧ください。




聞き手・文/たましん美術館学芸員 佐藤菜々子

 

Rebirth

会期|2022年4月11日(月)〜5月27日(金)

利用可能時間|午前7時〜午後10時

入場料|無料

会場|地域貢献スペース(多摩信用金庫本店本部棟2階北側通路のギャラリースペースです)

〒190-8681 東京都立川市緑町3-4 多摩信用金庫本店2階

お問い合わせ|042-526-7788(たましん美術館)






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